ケイト・ブッシュ「エアリアル」

Aerial

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ケイト・ブッシュ12年ぶりの最新作は2枚組。ざっと流して聴いただけだと非常に地味に感じられますが、聴き込む程にそこに描かれた壮大な世界観が浮かび上がってくる傑作です。


子供の遊びを孤高の存在のメタファーにしたシングル曲「キング・オブ・ザ・マウンテン」はアフリカンっぽいビートとレゲエ的なギターによってゆったりとしたうねりが生じているのですが、このゆったりとしたうねりがアルバム全体の律動を支配しているといえるでしょう。このアルバムでのケイトの音楽は決して性急になることなく、実にCD2枚を通してひたひたとクライマックスへ登り詰めていくのです。


<A Sea of Honey>と題された1枚目は、息子に対するストレートな愛情が歌われた「バーティ」や洗濯機を題材にした「バルトロッツィ夫人」などケイトにしては珍しい、日常的な光景が描かれた曲があるのですが、もちろんケイトがそれだけに止まるはずはありません。
円周率の計算に取り付かれた男の曲「π」はサビの部分の歌詞が円周率の数字となっていて、密かな狂気を感じさせずにはいられないし、「透明人間になる方法」では日常を越えた世界へのあこがれが歌われているように思えます。そして1枚目後半となる「ジョアンニ」では16世紀のイタリアの武将であるジョヴァンニ・デ・メディチが取り上げられて日常の世界からの離陸が始まり、更に最後の曲「コーラル・ルーム」ではかつて栄えた漁師の街で母子の姿を幻視する光景が描かれ、いよいよケイトのヴィジョンが羽ばたき始めていきます。


そして全編鳥の声に覆われた2枚目<A Sky of Honey>に続いていくのですが、大切なことは、ここで描かれる世界は1枚目と断絶したものとして扱われているわけではないことです。冒頭の「プレリュード」で息子のバーディの声が聞かれることからもそのことは明らかでしょう。アルバム・タイトルの「エアリアル」は風の妖精のことと思われますが(同名の妖精が登場するシェイクスピア晩年の傑作戯曲「テンペスト」もケイトはきっと思い浮かべていたでしょう)、風は地球の息吹として日常やそれを越えた世界をまたいで吹き抜けていくもの。かつてケイトが歌い綴っていた幻想・狂気の世界や、彼女がその音楽を熟成していく過程で取り入れてきたアイリッシュ・ミュージックやエスニックなビートも、母親としての自分の日常とつながった、ひとつの大きな世界の中にあるということがアルバム全体を通してのケイトのメッセージだと私は受け取りました。そうなると「キング・オブ・ザ・マウンテン」の「山」とは海と空をつなぐ象徴としての存在なのではないか、とも思えてきます。


5曲目「サンセット」は<A Sea of Honey>と<A Sky of Honey>というフレーズが歌詞に登場。ここまで描かれた世界が一体となり、曲の後半からリズムは躍動感を増しいよいよアルバムはクライマックスへ向けて動き出します。そして夜の大西洋の光景が描かれた「ノクターン」と夜明けを歌ったタイトル・チューン「エアリアル」へ。この2曲でケイトはこれまで培ってきた音楽のイディオムを総動員して、彼女にしかなしえないドラマティックで雄渾な世界を構築していきます。ただ圧巻のひと言。


前作「レッド・シューズ」から12年間沈黙を守ってきたケイト・ブッシュですが、このアルバムには長い空白の時間を埋めてなお余りある豊かさがあります。テーマ的にも音楽的にもスケールの大きなこのアルバム、聴き返す度にこれが彼女の最高傑作ではないかとの思いがつのっていきます。