丸谷才一『思考のレッスン』

思考のレッスン (文春文庫)

思考のレッスン (文春文庫)

この本は丸谷さんの愛読者はもちろん、初めて丸谷さんを読んでみたいという人にもお勧めできる本です。なぜなら、インタビュー形式で丸谷さんが考えるためのコツ、方法だけではなく、自分の思考の型ができあがるまでについてもたっぷり語ってくれるから。もし気に入ったなら、「こうした考え方をする人の本を実際に読んでみたい」と思うことうけあいです。

まずレッスン1「思考の型の形成史」では十代の丸谷少年が不思議に思っていた二つの謎が語られます。それは「なぜ日本はこういう愚劣な戦争を始めてしまったのか」と「日本の小説はなぜこんなに景気が悪いことばかり扱うんだろう」ということなのですが、これはそのまま後年の作家・丸谷才一の小説の根底に流れる主題なんですね。「戦争」の謎については『笹まくら』、「景気」については『たった一人の反乱』がそのひとつの答えとなるでしょう。もちろん『裏声で歌え君が代』や『女ざかり』などにもそれらのモチーフは受け継がれているのです。

レッスン2「私の考え方を励ましてくれた三人」では、中村真一郎バフチン山崎正和が丸谷さんに与えた影響について語られます。その三人の前に吉田健一についても触れているのがうれしいところ。

レッスン3からいよいよ「思考のレッスン」が始まります。まずは「思考の準備」としてまず本を読むことの大切さが語られます。「本の読み方の最大のコツは、その本をおもしろがること、その快楽をエネルギーにして進むこと。これですね」とした上で読書の効用として「情報を得られるということ」「考え方を学ぶことができる」「書き方を学ぶ」の三つをあげています。最後の効用は「文章読本」に通じる考え方ですね。「本を読んでおもしろいと思ったら、それがどのような書き方をされているから感銘を受けたのかを考える。これも大事ですね」
そして、ではどんな本を選べばよいのかなどの話の後に、自分のホーム・グラウンドを持つことの大切さが語られます。国文学者の大野晋なら古代日本語の音韻、吉田健一ヴァレリーシェイクスピア石川淳なら江戸とフランス文学などですね。
そして「たとえば夏目漱石は何だろう?なんと言ったって、大事なのはイギリス十八世紀小説に決まっている。だって、あれだけがんばって勉強したんだもの。彼の小説はそこから生まれてきたんです。ところが、みんなその問題を抜きにして漱石のことを論じてきた。(中略)でも一番大事なのは、イギリス十八世紀小説。および十九世紀のジェイン・オースティンですよ。それははっきりしている」と興味深い意見が述べられます。丸谷さんの漱石論は『闊歩する漱石』にまとめられていますので、詳しくはそちらをどうぞ。

さて、以下は駆け足でいきます。
レッスン4から実践編です。レッスン4「本を読むコツ」では事典、辞書の活用のしかたや、「本はバラバラに破って読め」、索引を活用する「インデックス・リーディング」、年表・人物表をつくろう、などが語られます。このあたり、松岡正剛さんと共通するところもありますね。
ただし、自分で考えることもしないで「何か本はないか」というのはよくないとされます。
「なにかに逢着したとき、大事なのは、まず頭を動かすこと。ある程度の時間をかけて自分一人でじーっと考える。考えるに当って必要な本は、それまでにかなり読んでるはずです。」
では考えるにはどうすればよいのか?ということでレッスン5では「考えるコツ」が語られます。

考える上で大事なのはよい問を発すること。ではよい問とはなにか。第一は「自分自身の発した謎」であること。第二は「謎をいかにうまく育てるか」。謎を自分の心に銘記して、明確化・意識化することの大切さが説かれます。そして通説と違っても構わないと考える度胸がついたところで改めて「慌てて本を読んではならない」と注意されます。
「いままで生きて、読んで、かつ考えてきた。そのせいで一応手持ちのカードはあるんですよ。その手持ちのカードをもう一ぺん見ましょう」。そのうえで「比較と分析」や「大胆な仮説をたてる」という方法論が示されます。さらに大切なのは遊び心があること。「でも、これは当たり前ですよね。人間にとっての最高の遊びは、ものを考えることなんですから」

最後のレッスン6は「書き方のコツ」です。「とにかく、頭の中でワン・センテンスを完成させた上で、文字にせよ」と言うテーゼがまず述べられます。そこから続けて日本語の特性をよく考えることの重要さ、文末の問題、レトリックの大切さなどが語られていきます。
そしてこの書物は以下の文章で締めくくられます。言葉は平易ですが、単なる文章論を超えて、今の私たちが心に刻んでおくべき文章だと思います。

「言うべきことをわれわれは持たなければならない。言うべきことを持てば、言葉が湧き、文章が生まれる。工夫と習練によっては、それが名文になるかもしれません。でも、名文にはならなくたっていい。とにかく内容にあることを書きましょう。
そのためには、考えること。そう思うんですよ」