片山杜秀「近代日本の右翼思想」
- 作者: 片山杜秀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/09/11
- メディア: 単行本
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この評論のユニークさは目次を引用するだけでも充分伝わってくると思います。
第一章 右翼と革命―世の中を変えようとする、だがうまくゆかない
第二章 右翼と教養主義―どうせうまく変えられないならば、自分で変えようとは思わないようにする
第三章 右翼と時間―変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる
第四章 右翼と身体―すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る
片山はまず「はじめに」で“右翼”と“保守”、“左翼”の定義づけを行っています。“右翼”と“保守”を分けているのがポイントで、すなわち「今ある物を尊重する」“保守”に対し、“右翼”と“左翼”は「現在を変えたい」という点で一致するのです。異なるのは立脚点で、まだ実現していない未来の理想図を目指して現在を変えようとするのが“左翼”で、「失われた過去に立脚して現在に意義を申し立てる」のが“右翼”となるわけですね。しかし、問題はここからで“右翼”が失われた過去の担い手として想定する天皇は、現在もちゃんと存在しています。そこで奇妙なねじれが見られるのです。これは片山の文章を直接引用した方が話が早いでしょう。
今の日本は気に入らないから変えてしまいたいと思い、正しく変える力は天皇に代表される日本の伝統にあると思い、その天皇は今まさにこの国に現前しているのだからじつはすでに立派な美しい国ではないかと思い、それなら変えようなどと余計なことは考えないほうがいいのではないかと思い、考えないなら脳は要らないから見てくれだけ美しくしようと思い、それで様を美しくしても死ぬときは死ぬのだと思い、それならば美しい様の国を守るために潔く死のうと思う。
―「おわりに」より引用
日露戦争後から大東亜戦争に至る右翼的な思想の流れを片山はこのようにまとめています。これが本当に正しいのかどうかを判断することは軽々しくできることではありませんが、右翼を代表する人物のみならず、西田幾多郎や長谷川如是閑、果ては夢野久作「ドクラ・マグラ」まで登場させて思想史のパースペクティヴを描き出す手つきは鮮やかで、とても刺激的でした。