梅田望夫「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか? 現代将棋と進化の物語」

将棋、というのは不思議なもので、日本人のほとんどに知られているゲームでありながら、いざ自分で指すとかプロの将棋を観戦するとなると敷居が高いと思っている人が多いような気がします。かつて渡辺竜王が述べたように、プロ野球やプロサッカーを観戦するのと同じようにプロの将棋を楽しんで欲しいと思っているプロ棋士や将棋ファンは少なくないはず。将棋の存在は知っていてもその入り口で逡巡している人に、その魅力をどう伝えるか。この本にはその答えのひとつが示されているように思います。しかし、そのためらっている人がこの本をぱっと見たとき、頻発する指し手の符合にしりごみしてしまうかもしれません。けれども、この本は思い切って符号を全部読み飛ばしたとしても充分楽しめるのですから、ぜひ手にとってもらいたい。著者の鮮やかな描写力と、羽生名人を初めとする棋士達の言葉によって、読者は現代将棋の最前線で何が起こっているのかだけではなく、棋士という存在が実にユニークでかつ人間的魅力に富んだ人々が多いことを知ることができるのです。
例えば第一章で登場する木村八段。熱戦に惜しくも敗れた後でも記録係へのねぎらいを忘れない、その「繊細、気配り、優しさ」に溢れたパーソナリティの魅力は、「3月のライオン」を読んで島田八段のキャラクターに惹かれた人なら、あのような棋士が実際に存在していることに驚くかもしれません。また、三浦八段と深浦九段を描いた部分では、プロ棋士の研究の深さに驚き、かつその真摯な姿勢にうたれることでしょう。中でも白眉は山崎七段を取り上げた第3章。山崎七段の率直な言葉から感じ取れる才気や、自らの才能に対する自負と謙虚さがない交ぜになった心境からは、著者が「華」と呼ぶ彼の魅力がふんだんにあふれていて非常に面白いです。試し読みを考えている人にはまず第3章を読んでみて、とお薦めしたいくらい。
このようにこの本は様々な視点から棋士の魅力を語っているのですが、やはり中心となるのは羽生名人。将棋盤を離れてマスメディアに登場する羽生名人は常に柔和な笑顔を絶やさないジェントルマンですが、その底には強いパッションが流れているのです。そして更にある種の狂気に近いものも持ち合わせていることもこの本は教えてくれます。私が読んでもっとも印象に残ったのがその部分でした。第5章で、著者に羽生名人が深浦九段との棋聖戦を解説する場面。それまで丁寧に解説をしていた羽生名人に異変が起こり、「表情と口調が変わり、一文字一文字、言葉を区切って話すロボットのようになって」しまいます。そして著者の前で猛スピードで駒を動かし手順を再現し、最後に「これで詰まないということで、ははははははは(爆笑)」と、しばらく一人爆笑を続けたのですが、きっとそこにはTVなどでは絶対見せることのない狂気の響きが宿っていたと思います。個人的にはここが読めただけでも、お金を払った価値があると思われました。徹頭徹尾将棋を巡って書かれていながらも、読む人それぞれが自由に想像の翼を広げることができる稀有な書物です。将棋ファンの枠を越えて、多くの人に読まれることを願ってやみません。