高橋悠治『solo』

solo

solo

柳生弦一郎によるイラストのジャケットが秀逸です。無心に鍵盤に触れているようでもあり、したたかな企みを奥に秘めているようでもある表情がユーモラスに描かれているのですが、このアルバムから聴こえてくる音楽もまさにそうした二面性を持って響いてくるのです。

モーツァルトニ長調イ短調のロンドに挟まれる形で「鳥の歌」、シューベルトソナタ、自作の「子守唄」の2つのヴァージョン、ガルッピのソナタショパンマズルカを収録した小品集。どの曲もこれまで聴いたことがなかった表情を見せながらも、作為的な印象は与えず、自在に弾き進められているように聴こえます。本人によるライナーノーツには、

だれでも弾く曲をだれもやらないやり方で、でも故意にではなく、弾くか、あるいはだれも弾かない曲を弾く。そういう発見と学習への興味以外に、いまさらピアノのCDを作る理由も、さらに言えばピアノを弾く理由もない。

といった一文がありますが、ポイントは最初の文章の「だれもやらないやり方で」と「弾くか」の間にさりげなく挿入されている「でも故意にではなく」の一節でしょう。これによって悠治の演奏はいくらユニークなものであっても、例えばグレン・グールドヴァレリー・アファナシェフのような演奏家と一緒にして捉えることはできなくなります。ここでの「故意に」とは“解釈”とほぼ同義ではないかと思いますが、悠治は譜面を読み込み、独自の“解釈”を施して表現するといった“普通の”(あえて“普通”としておきます)演奏行為にそっと異を唱えているように私には思われるのです。

「いまこれらのクラシックを弾くことは、音符を読むだけではなく、そこにまつわりついてきた歴史を読み取ることでもある」とも綴っている悠治は「だれもやらないやり方で、でも故意にではなく、弾く」ことでまつわりついてきた歴史を剥がしとり、あたかもいきなり曲が目の前に現れたかのようにモーツァルトを、シューベルトを、ショパンを奏でます。そのことで「そこに顕れる(洗われた)無常(情)の音のたわむれが、未知の顔をのぞかせ、音のまなざしが聴いているこちらをじっと見返している」状態を現出させます。だからこそこの演奏から流れ出す音の粒子は乾いた風のように耳を刺激し、驚きと新鮮さに満ちたものになっているのでしょう。この乾いた音の戯れが織り成すタペストリーに何を見出すか。悠治自身は「見えない東方が影を落としているのを」感じているようですが、それは私たち聴き手一人一人に委ねられているのです。