V.A『日本のジャズ・ソング〜戦前編・創成期のジャズ〜』

日本のジャズ・ソング~戦前篇・創生期のジャズ~

日本のジャズ・ソング~戦前篇・創生期のジャズ~

1976年にLP5枚組として発売された『日本のジャズ・ソング』が昨年秋からバラ売りでCD化されています。今回とりあげたのはその最初の1枚。東京初のジャズ・レコード*1として発売された「あほ空」を初めとして主に昭和3年から4年にかけてコロンビア・レコードに録音された楽曲を収録しています。このシリーズには瀬川昌久野口久光による解説がついていて、楽曲の録音データや当時の日本のジャズ受容状況が詳細に記されており、資料的価値もたいへん高いものになっていることも特筆すべきことでしょう。現在にも通じる「洋楽のビートにいかに日本語をのせるか」という試みのはじまりとしても注目すべきシリーズです。

このアルバムで聴かれる音楽は今の私たちが“ジャズ”という言葉を聞いて連想しがちな4ビートのリズムやモダン・ジャズ・スタイルのアンサンブルとは大きく異なっています。それもそのはずで昭和3年(1928年)といえばまだアメリカのジャズ自体も創成期にあたるといっても大きな間違いではないでしょう。なにしろまだガーシュインも存命でこの年には代表作の一つである『パリのアメリカ人』を作曲しています。デューク・エリントンは前年の1927年にコットン・クラブとバンド契約を結び、ニューヨークで本格的なキャリアのスタートの第1歩を踏み出したばかりでした。音楽的なピークを迎えていたのはルイ・アームストロングでこの時期、シカゴの名ピアニストであるアール・ハインズがバンドに加わり、次々と代表作をレコーディングしていたのです。

とはいえ、まだまだ純粋なジャズ・レコードはアメリカでもそれほどリリース数が多かったとはいえない時代だったでしょう。野口久光の文章には、

しかし当時は、アメリカでも一般には本格的なジャズ演奏とジャズ風のリズムを取り入れたダンス・バンド・ミュージックとを特に区別していなかったのである。ダンス・バンドの演奏する音楽はすべてジャズだというのが常識だったといってもウソにはならない時代だった。

という一節があります。だから、このアルバムの曲の大半が“ジャズ風のリズムを取り入れたダンス・バンド・ミュージック”であることは不思議ではありません。フォックス・トロットやラグタイム、ワン・ステップなどのリズムを基調とした2ビートのシンコーペーテッド・ミュージック。むしろそのジャズ風のビート感覚がかえって興味深く感じられるのです。

簡単に内容を紹介すると、冒頭の3曲は二村定一、天野喜久代+レッド・ブリュー・クラブによる3曲。先に触れた「あほ空」やそのカップリングで「あほ空」以上に大ヒットしたという「アラビアの唄」を聴くことができます。二村、天野とも浅草オペラ出身でやや几帳面な歌唱ながらもおおらかな歌心が感じられます。続いて当時のミュージカルのヒット曲などをジャズっぽくアレンジした曲が並びます。チャップリンが「モダン・タイムズ」でリバイバルさせた「ティティナ」が聴けるのがうれしいところです。
そして10〜12曲目がこのアルバム一番の聴きどころ。コロムビア・ジャズ・バンド名義ではあるが、実際の演奏は黒人とフィリピン人の混成バンドであるディキシー・ミンストレルズが手がけたらしい3曲「月光値千金」「都はなれて」「赤い唇」が並びます。ここでの演奏・天野の歌唱ともスイング感覚が充分に感じられる見事なものです。
アルバムの最後の3曲はそれまでと毛色が異なるもの。昭和6年から8年にかけて、古いアメリカの曲にコミカルな日本語の歌詞をつけて評判になったバートン・クレーンの歌が収録されています。今ではバートン・クレーンの音楽もまとめられて発売されたいますが(私は未聴)、ここに収めれた3曲でもそのユニークさは充分に感じられます。「酒がのみたい」「家へかえりたい」のカップリング・シングルは、当時銀座を歩くと、ビアホールやカフェで必ず流れていたそうな。トボケタ味わいの歌詞がなんともいえないおかしみを醸し出しています。

*1:解説によると関西では大正末のダンスホールの隆盛に伴い、ニットー・レコードがジャズと称するレコードを出していたとか。